2015年12月5日土曜日

A HUGE Mall!

先日オープンしたばかりの Expoland 跡地にできた ExpoCity に行ってきました。

メディアでしつこいくらいに公共交通で来るようにと言っているせいか
意外と駐車場はすいてます。
が、人気店はずっと行列を作っていたり、中はかなりの人出ですねー。
平日でも結構な感じです。

かなり規模が大きくて、4DやIMAXがある映画館から海遊館のニフレル、
エイゴタウン(どんなんでしょうねえ?)、そして巨大なららぽーと。
レストランも充実してます。フードコートからは例の「太陽の塔」が見えるし。
昔の大阪万博にちなんだ展示やレストランもあって、ちょっとノスタルジックにもなれます。

いやあ、別に宣伝する気はないのだけれど、
近所にこんな大きなものができてしまって、なんだかちょっとキオクレ気味なので。

これからまだ、巨大観覧車ができるそうでちょっと楽しみです。
きっと万博公園は言うまでもなく、大阪平野がぐるっと見えるに違いない!

ちなみに大人な私は、映画館で「パリ3区の遺産相続人」を観て来ました。
最初の題は「サンジェルマン・・・」だったけれど、実際の舞台はマレ地区だったので慌てて題を変えたという裏話もあるようで、マギー・スミスの飄々としたおばあちゃんの演技がなんともおかしくて。
私は好きですね、こういう映画。映画だからこその設定と結末。
事実はもっともっと奇なるものなのかもしれませんが。(私の人生なんて平凡ですしー)

というわけで、閑なときのお出かけスポットがひとつ増えましたと。
シンガポーはいろーんなアトラクションやら観光地やらが近所にいーっぱいあって、
いろーんな行事が次から次へとやってきて飽きなかったけど、
こうなってくると日本も悪くないよ、と。ね。
(季節があると忙しいけどねえ)


ガンダムカフェ?だったけ?も、ありました。
「ハロまん」売ってた

2015年11月17日火曜日

An Inspired Step to Another New Act

9月にシンガポールを訪れた際、
以前から親しくしていたゲイジュツカの友人といっしょに 
これまたゲイジュツカの同級生を訪ねにいこうということになった。

彼女の同級生は、マレー人と結婚してかれこれ10年以上マレーシアに住んでいるらしい。
私なんか4年日本を離れただけで、すっかり日本の感覚がおかしくなったというのに
そんなに長期間、しかもイスラム圏で暮らしているんだから
きっとかなりキテルはずだと予想した。(笑)

友人の提案で早朝のシンガポールから5時間かけて
高速バスでクアラルンプールまで行くことになった。
考えてみれば、飛行機で1時間とはいえ
チャンギ空港でチェックインが1時間前、KLのLCC(!)ターミナルに着いてから移動して・・・・
とか考えていたらそんなに時間変わらないんじゃないかと。
バスだと荷物をほとんど運ばなくていいし、イミグレもお気楽で、席だってゆったりしてる。
しかもマレー系お弁当までついてて片道SD50(約4500円)は安い!
帰りはマレーシアでチケットを買うともっと安い!

というわけで、
結構すいているダブルデッカーのバスの最前列で足を投げ出して
ゆったりゆっくり、ながーいガールズトークを繰り広げながら
たまにウトウトしながら、美味しいサンバルがついてるお弁当食べながらKLまで。

ちゃっちゃと行けばいいのに、地下鉄でKL中心部に着いたらお茶したくなってホテルのロビーでだらだら。

重い腰を上げて中央駅から電車に揺られて約一時間、
そこからまたタクシーで10分くらい、ようやく同級生んちに到着。
結局、シンガポールの友達んち出てからなんと8時間の旅、すっかり夕方になってしまった。
ゆったりおしゃべりしながら、超リラックスしての移動だったもんで
全然疲れてはいなかったんだけど。(笑)

さて、到着して友達の同級生に会ってみれば
なんと、私達の中で一番日本人らしくきちんとまともで
ステキな(でもしっかりオモローな)女性だった。(ははは)
料理がうまくて、日本食もマレー料理もお菓子もパンもピザもぱっぱと作っちゃう。
もちろん彼女の描く絵もステキで、なにより器用な彼女の手で作られる
アクセサリーがかわいくてステキで!
マレーシアで販売してきたけれど、最近、シンガポールでも売り出したと。
ハンドメイドだから一点もので、それで値段は全てリーズナブル。
たくさんある在庫の中から決めきれずに、いくつかまとめて購入してウハウハ。
最近は気に入ったブレスレットを毎日してるので、すっかり汚れてきてしまうほど。
(そろそろ洗わないとなあ)

聞くと、日本に向けてもオンライン販売していたけれど、いろいろ大変で休止中だという。
なら、暇人の私がやればどうでしょう?と、話はとんとん拍子で。

というわけで、お手伝いすることになったのです。
それがこちら。

11月末まで送料無料セール中です!
 


ほらね、また新しい道を歩き始めたよ。
ほんと人生って面白い。




2015年11月9日月曜日

A Night of Court Dance

というわけで、ガムランの公演にでてきました。

先生たちと、普段からあちこちで出演している長年の経験者の方々などに混じって
ちょこっと演奏させていただきました。

数曲中の一曲は、宮廷舞踊の伴奏でなんと約20分の長さがあって
最初から最後まで、何度もテンポが変わり休む間がないという難しいもの。
去年帰国してから始めて週一のペースで練習してきただけなので
ピアノや三線、バンドなど音楽経験はあったものの
約2ヶ月前に曲が決まってからはなかなかハード。。。
週一回の練習ではとうてい無理ということで
我が家に鍋のような形のガムランが運び込まれ、本番にむけひたすら練習の日々。
(しかも9月はシンガポール行ったり遊んだりしてほとんど練習できず・・・)
なんとか最後まで止まらずに通せるようになった頃に初めて全楽器と合わせることになったら
これまた全く感覚が違ってややパニック気味。

そんなこんなであっという間に当日となり・・・

緊張感とワクワク感。
総勢18名の大所帯、楽器の設営もなかなか大変。
ライブハウスに行って、ちょちょっとセッティングしてちゃっと帰るのとはちょっと違う。
何も無いホールでの照明や音響、観客席の設営、それはそれは大掛かりで。
時期も時期なので、大学時代の学園祭を思い出す。
懐かしい感覚。

会場は中ノ島公会堂の集会室
立派です

リハ中


 
さて、私はというと・・・
シンガポールのアラブストリートで買ったサロンと、借りたケバヤを着て
格好だけは一人前、演奏は半人前(苦笑)。
なぜか、舞台前の緊張だけはあんまりしないんだよね。
まあ、何はともあれ、新旧友達や家族も駆けつけてくれ
大きなミスもなくなんとかかんとか無事修了。

おいしいインドネシア料理を食べつつ
昼夜二回の公演を終えて
撤収作業が終わった頃にはもう夜の10時。




長い一日があっという間。
当分、こんな大勢の前で演奏することなんか無いだろうな、と。

しかし、楽しかった!
これはやめられないなあ。


2015年10月24日土曜日

みちはつづく

京都は龍谷大学のミュージアムに
アンコールワットの石仏展を見に行ってきた。
http://museum.ryukoku.ac.jp/exhibition/sp.html

年のせいなのか、なぜか最近仏像が気になる。
優しい顔をした綺麗な仏様は、見てても飽きない。
その中でも、やっぱりなんとなく自分と似ているせいなのか(笑)
東南アジアとかインドの彫刻に惹かれる。
 


龍谷ミュージアムに行くのは今回初めてだったけど、
建物がとても素敵。
堀川通の周りの旅館や本願寺さんと一体化してて
さりげないのに、それでいてかっこいい。

テンション高いまま中に入ると
そこはもうヒンズー&仏教の世界。

学校がキリスト教だったおかげで
自然とキリスト教の教えや聖人の名前や
聖書の逸話などはいくつか知ってるくせに
実は仏教についてはほとんど何も知らない私。
ヨガを始めて、ヒンズー教について色々知ることになったけど
これまた最近宗教が面白いと思う。

信仰でなく、単に文化や芸術、物語としてみると
かなり斬新でそれぞれがユニークで奥深い上に
どんどん融合し分化して変化していくところが
ファッションにも似ていて。

しかも、遺跡好きな私。
出る頃には、もう
アンコールワット、いつ行こう?状態。

ショップで売ってたガネーシャ柄のトートバッグ、
最後まで後ろ髪引かれたけど我慢した。

ほら、昔はアジアに興味なかったのに
また違う道を辿ってる。



2015年10月17日土曜日

前の道、後ろの道

というわけで、帰国後の私。

4年というのは、大学と同じ期間、中学、高校よりも長く小学校よりは短い。
大人になると一年一年は短く感じるけれど、それは結構それなりの影響力をもつ。

終わってみれば、あっという間のシンガポー生活だったけれど
親友といってもいいくらいの友達ができ
訛った英語を話すようになってしまい
家のご飯のレパートリーにアジア料理が増え
日本の中華料理に物足りなさを感じるようになり
飛行機に乗ったり外国に行くことに特別感を感じなくなり
どこでも聞こえてくる日本語(特に車内アナウンス)がうるさい
毎朝起きて仕事に行くなんて考えられない。。。(それは違うでしょ)

そのなかでも一番感じたのが、あっちに行ったときと逆。

「日本は堅苦しい」

東南アジアはいい加減で、約束守らないし、顧客対応は最悪で遠慮が無い、
と思っていた。
それに慣れてしまった私、
日本は堅苦しくて、柔軟性がなく、必要以上に丁寧ではっきりものを言わな過ぎる、
と感じるようになってしまっていた。

変な話だけど、日本の生活にスっと馴染めない。
一年以上たった今では、日本の生活は普通だし元に戻った感はあるにはあるけれど。
いい年した大人がこれだから、子供ならもっと大変に違いない。

そんなとき、先に帰国していた友人に誘われて始めたのが
インドネシアの楽器、ガムラン。
昔バリに行ったときから興味もあったし、もともと楽器は好きだし。
何より、インドネシアっぽい空気感の中で堅苦しくない人たちといるのが心地よかった。

で、そのガムラン、楽しくてゆるーく続けてきて、生活の一部になりつつあるけれど、
今度、大きなホールで演奏することになりました。
デビュー?(笑)



てな感じで、ずっと日本にいたら通らなかったであろう道を歩いています。

2015年10月14日水曜日

もう10月だし

あっという間にもう10月。
え?こないだのブログ書いたの3月?ありえーーん。

まあ、もともと、このブログを始めたきっかけは、
海外に住む私を心配しているであろう両親に向けて
そして、どうしてるんだろうと思ってくれているであろう友達に向けて
発信していきたかったから。
だけど、こうして帰国してしまったら、別にいちいち報告する必要もないわけで。

どうしたもんかと思ったけれど
考えてみれば、今の生活、元いた家に戻ったわけだけれど
シンガポーに行く前とは全く状況が変わってて
そのほとんどがシンガポーに居たことで、そしてシンガポーで経験したことが元で
始まっていることが多いことに気づいた。

第2の故郷やね、もう

実は、日本帰ってから、シンガポーには既に2回行ってて
やっぱりというかなんというか、シンガポーは私の一部になってしまっているのだね。
2014年の年末、そして2015年の9月。年一回ペース?

じゃあ、このまま書いていってもいいかな、と。
ブログを書くって、結構自分の頭の整理にもなるしね。

というわけで、今日は再開する決心をしたということで、お、わ、り。

2015年3月20日金曜日

International Sense

もともとうちの家系は顔が濃い。
背が高く、手足も長い、髪も細くてくせっ毛だ。
両親も祖父母も、その世代にしては大きいし
兄貴も、細っこいくせに肩幅が広くて身長以上に大きく見える。

が、まあ、みんなフツウに生きている、当たり前だけど。

が、なぜか家族の中で私だけ、子供の頃からいつも外国人に間違われる。

空港や観光地では当たり前、海外でも日本人とは思われないし
両親や旦那、友達と一緒にいても、はたまたひとりで居ても
電車の中や町の中でも、それはやっぱり起こる。


そんな間違われ回数は国境をまたいで数え切れず
オモロ話も後を絶たず。


実家に来たセールスマンに、なぜこの家には「アメリカ人」がいるのかと聞かれた母が
あれはホームステイしている近くの大学の留学生だとテキトーに答えた件。
(なぜ「アメリカ人」限定なのか?)

毎週会っている人が、数ヶ月間ずっと私のことを日本語のうまい外国人だと思っていた件。

寺社仏閣に行くと必ず英語のリーフレットを渡される件。


外国人観光客が以前よりも多くなってから
そして私がシンガポールに住むようになってから
それはまたより多く起こるようになり。

もちろんこの歳にもなると、自覚もいい加減あるので
できるだけ皆さんに勘違いをさせぬよう
できるだけ日本人っぽい立ち居振る舞いをしてみたり
できるだけべたべたの関西弁をハッキリ話してみたり。


それでも、やっぱり起こる。
そしてなぜか「英語」で話しかけられる。


でも、これっておかしくはないか?
見た目がどうであれ、相手が普通に日本語(しかも関西弁)で話しているのになぜ?
それに、外国人と言っても全世界の人が英語を話せるわけではない。
実際、英語より日本語の方が得意な外国人を私は知っている。



つまり



どうも自分たちとは違いそうな人間を見ると
あまり巡ってこない機会をここぞとばかりに生かすために
せっかく通っている英会話教室で習ったフレーズを使うために
「英語」で話しかけたくてウズウズしている輩がいっぱいいるのではないかと。
相手のために話しているわけではなく、あくまで自己満足なのではないかと。


見た目も中身も英語圏外の外国人だけど日本語が母国語並みに話せる人が
自分は日本語で話しているときに、へたくそな英語で返答されたらどう思うだろう。

ちなみに私は、日本在住の外国人とは日本語で話すようにしている。
彼らは彼らで努力しているし、それが礼儀だと思うから。


本当の意味での国際感覚って何なんだろう?
英語で道案内ができるってことだけではないはずだと思うこの頃。


2015年3月11日水曜日

3.11

2011年3月11日、私は日本から遠く離れた南の「小さい赤い点」にいた。
(シンガポール人は自らの土地を誇りをもってそう呼ぶ)

その時間は、いつものように授業のあと友達とカフェでおしゃべりをしていた。
すると、ひとりの日本人の友人が、ご主人からメールが来たという。
「地震のせいで電車が止まって閉じ込められている」
たまたま日本への出張で仙台から東京に向かっていたご主人、
そのあと一時間身動きできなかったらしい。
へーー、関東って地震多いよねー、なんて呑気にそのあともおしゃべりを続け
夕方家に帰ってから見たニュースで、どうも関東一帯が麻痺状態だとわかる。
実は、翌日の早朝、関空から友達が来ることになっていたので大丈夫かと思ったが
関西だから問題ないだろうということだった。
親戚も西日本ばかりなのでみな普段どおりそうだったし、
首都圏の友人らも大変ではあったけれど、無事そうではあった。


さて、翌朝、何事もなく関空から着いた友達を空港に迎えに行き、
その後4日間観光に連れまわった。
あちこち移動して食べて観光してずっと忙しくしていたが
タクシーの運転手やレストランの店員が、こっちが日本人だとわかると
「日本、大変だねー。心から残念に思うよ」なんて声をかけてくれた。
でも、せっかく遠くから来ているのだから楽しんで帰ってもらおう、
と、私も、そして彼女ら自身もあえて気にしないようにしていた。

実は、彼女らが帰った後からが、私の本当の震災体験だった。
もちろん気にはなっていたので、ネットでニュースをずっとストリーミングしたり
あれこれ検索したりし始めると止まらなくなってきて
旦那が出勤している昼間の間、ずっとひとりで家に引きこもって見続けてしまった。


そんなこんなで一週間たったころ、
「こんなことしてたら私が欝になってしまう」と
通っていたヨガスタジオにでかけた。

その日はたまたま生徒は私ひとりで、すこし年上のローカルの先生とマンツーマンになった。
いつもの通り一時間のクラスを終えたあと先生が
「日本のために少しお祈りをしましょう」と瞑想の時間をとってくれた。
目を閉じたとたん目の前にぶわーーーーーと広がったのは、
ずっと見続けてた映像、津波が何もかもを飲み込んでいく画。
人前だからと我慢していたのに、ぶわーーーーーーと涙が止まらなくなった。
「それでいい、それでいいのよ」
先生は私が一通り泣き止むまでずっとそばに居てくれた。

こんな惨事が起こっているのに私はこんな遠いところで、
天災のほとんどない場所で、何もできない
(日本にいたって何もできなかったに違いないが)
何の苦労もなく電気も使い放題でフツウにお気楽に生きていることに罪悪感を感じた。

その後、あちこちでやっているチャリティに参加したり募金したりした。
まるでそれが私の罪を消してくれるかのように。
誰かを支援するというより、自分を救うために。


あれからもう4年。



世の中の哀しみは一向に減らないし、なくならない。

私に何ができるのだろうとときどき考える。