2015年3月20日金曜日

International Sense

もともとうちの家系は顔が濃い。
背が高く、手足も長い、髪も細くてくせっ毛だ。
両親も祖父母も、その世代にしては大きいし
兄貴も、細っこいくせに肩幅が広くて身長以上に大きく見える。

が、まあ、みんなフツウに生きている、当たり前だけど。

が、なぜか家族の中で私だけ、子供の頃からいつも外国人に間違われる。

空港や観光地では当たり前、海外でも日本人とは思われないし
両親や旦那、友達と一緒にいても、はたまたひとりで居ても
電車の中や町の中でも、それはやっぱり起こる。


そんな間違われ回数は国境をまたいで数え切れず
オモロ話も後を絶たず。


実家に来たセールスマンに、なぜこの家には「アメリカ人」がいるのかと聞かれた母が
あれはホームステイしている近くの大学の留学生だとテキトーに答えた件。
(なぜ「アメリカ人」限定なのか?)

毎週会っている人が、数ヶ月間ずっと私のことを日本語のうまい外国人だと思っていた件。

寺社仏閣に行くと必ず英語のリーフレットを渡される件。


外国人観光客が以前よりも多くなってから
そして私がシンガポールに住むようになってから
それはまたより多く起こるようになり。

もちろんこの歳にもなると、自覚もいい加減あるので
できるだけ皆さんに勘違いをさせぬよう
できるだけ日本人っぽい立ち居振る舞いをしてみたり
できるだけべたべたの関西弁をハッキリ話してみたり。


それでも、やっぱり起こる。
そしてなぜか「英語」で話しかけられる。


でも、これっておかしくはないか?
見た目がどうであれ、相手が普通に日本語(しかも関西弁)で話しているのになぜ?
それに、外国人と言っても全世界の人が英語を話せるわけではない。
実際、英語より日本語の方が得意な外国人を私は知っている。



つまり



どうも自分たちとは違いそうな人間を見ると
あまり巡ってこない機会をここぞとばかりに生かすために
せっかく通っている英会話教室で習ったフレーズを使うために
「英語」で話しかけたくてウズウズしている輩がいっぱいいるのではないかと。
相手のために話しているわけではなく、あくまで自己満足なのではないかと。


見た目も中身も英語圏外の外国人だけど日本語が母国語並みに話せる人が
自分は日本語で話しているときに、へたくそな英語で返答されたらどう思うだろう。

ちなみに私は、日本在住の外国人とは日本語で話すようにしている。
彼らは彼らで努力しているし、それが礼儀だと思うから。


本当の意味での国際感覚って何なんだろう?
英語で道案内ができるってことだけではないはずだと思うこの頃。


2015年3月11日水曜日

3.11

2011年3月11日、私は日本から遠く離れた南の「小さい赤い点」にいた。
(シンガポール人は自らの土地を誇りをもってそう呼ぶ)

その時間は、いつものように授業のあと友達とカフェでおしゃべりをしていた。
すると、ひとりの日本人の友人が、ご主人からメールが来たという。
「地震のせいで電車が止まって閉じ込められている」
たまたま日本への出張で仙台から東京に向かっていたご主人、
そのあと一時間身動きできなかったらしい。
へーー、関東って地震多いよねー、なんて呑気にそのあともおしゃべりを続け
夕方家に帰ってから見たニュースで、どうも関東一帯が麻痺状態だとわかる。
実は、翌日の早朝、関空から友達が来ることになっていたので大丈夫かと思ったが
関西だから問題ないだろうということだった。
親戚も西日本ばかりなのでみな普段どおりそうだったし、
首都圏の友人らも大変ではあったけれど、無事そうではあった。


さて、翌朝、何事もなく関空から着いた友達を空港に迎えに行き、
その後4日間観光に連れまわった。
あちこち移動して食べて観光してずっと忙しくしていたが
タクシーの運転手やレストランの店員が、こっちが日本人だとわかると
「日本、大変だねー。心から残念に思うよ」なんて声をかけてくれた。
でも、せっかく遠くから来ているのだから楽しんで帰ってもらおう、
と、私も、そして彼女ら自身もあえて気にしないようにしていた。

実は、彼女らが帰った後からが、私の本当の震災体験だった。
もちろん気にはなっていたので、ネットでニュースをずっとストリーミングしたり
あれこれ検索したりし始めると止まらなくなってきて
旦那が出勤している昼間の間、ずっとひとりで家に引きこもって見続けてしまった。


そんなこんなで一週間たったころ、
「こんなことしてたら私が欝になってしまう」と
通っていたヨガスタジオにでかけた。

その日はたまたま生徒は私ひとりで、すこし年上のローカルの先生とマンツーマンになった。
いつもの通り一時間のクラスを終えたあと先生が
「日本のために少しお祈りをしましょう」と瞑想の時間をとってくれた。
目を閉じたとたん目の前にぶわーーーーーと広がったのは、
ずっと見続けてた映像、津波が何もかもを飲み込んでいく画。
人前だからと我慢していたのに、ぶわーーーーーーと涙が止まらなくなった。
「それでいい、それでいいのよ」
先生は私が一通り泣き止むまでずっとそばに居てくれた。

こんな惨事が起こっているのに私はこんな遠いところで、
天災のほとんどない場所で、何もできない
(日本にいたって何もできなかったに違いないが)
何の苦労もなく電気も使い放題でフツウにお気楽に生きていることに罪悪感を感じた。

その後、あちこちでやっているチャリティに参加したり募金したりした。
まるでそれが私の罪を消してくれるかのように。
誰かを支援するというより、自分を救うために。


あれからもう4年。



世の中の哀しみは一向に減らないし、なくならない。

私に何ができるのだろうとときどき考える。